伝統と文化

歴史のにおい佇む伊賀里
俳聖 松尾芭蕉の緑深きいがの郷
山々に囲まれた深き伝統のいきづく伊賀国

四方が山々に囲まれた静かな伊賀の国は、独特な文化と伝統が伝わる郷です。
俳聖松尾芭蕉・上野天神秋祭・上野城・忍者・伊賀の組紐・伊賀焼きなど
伊賀の国ならではの文化・伝統工芸をご紹介させていただきます。

上野城

天正13年(1585)伊賀の国主、筒井定次が文禄のころ、三層の天守を持つ平山城を築いたのがはじまりです。筒井定次が国替となり、慶長13年(1608)伊賀・伊勢の領主として伊予国から入国したのが藤堂和泉守高虎。高虎は自ら城郭を西方に拡張し、日本一の高石垣で囲み梯郭式の堅固な城郭とし五層の天守閣を築きましたが、慶長13年作事半ばに台風のため倒壊し再建されることなく廃藩を迎え、昭和の始めに古来の築城技法にのっとり細部にいたるまで復興され、白鳳城と呼ばれるとおり白い壁が美しいお城です。

俳聖 松尾芭蕉

伊賀上野の出生 (正保元1644-元禄七1694年)

伊賀上野の郷士、松尾与左衛門の次男として生れる。10代で藤堂藩に出仕、蝉吟と共に北村季吟の門人として俳諧を学びました。
旅に生き旅に死んだ漂泊の詩人として各地を旅し「野ざらし紀行」「奥の細道」などの紀行文や数々の名句を生んだ松尾芭蕉は、わび、さび、しおり、かるみ、ほそみと言った文芸思潮を基調とし、焦風俳諧を確立していきました。処女作「貝おほひ」をかきあげ、上野の産土神(菅原神社)に奉納した後、江戸へ下りましたが、その後もたびたび上野へ足を運びました。

上野天神秋祭(鬼行列・だんじり)

400年の歴史を誇る上野天神祭

上野天神秋祭は信仰に厚く文化的な伊賀の土壌を背景に、土地の守護神「産土神(うぶすながみ)」崇拝から発祥したと言われています。豪華な絵巻物のように繰り広げられる荘厳なお神輿の巡幸、これに供奉する百数十体の鬼行列が街を練り歩き、豪華絢爛な9基のだんじりの勇壮かつ典雅な祭です。400年の伝統を誇る上野天神秋祭は重要無形文化財に指定されています。

伊賀の組紐

伊賀伝統産業の一つ伊賀の組紐

組紐は江戸で発達した伝統工芸でしたが、明治の初期に衰微していったものを、9年間の奉公で江戸組紐の技術を修得した広沢徳三郎氏が明治35年、郷里の伊賀に組紐工場を設立したのに始まり、昭和初期から盛んに業者が増え戦後は機械組みの導入にともなって全国の80%のシェアを誇る組紐産業となり、近代工業が未発達で婦人労働力が豊富であったことなどから、工場での作業と同時に家庭内職としても定着し、外注も増え全国一の産地に発展しました。

伊賀焼き

伊賀焼きの歴史は古く、天平時代に創起され日本六大古窯の一つとして数えられています。伊賀焼きの発展は、茶道のはじまりと歴代藩主の保護によるもので、茶器、花器などの日常雑器が主に造られていました。
伊賀焼きの特徴は、俗に伊賀焼の七度焼と称されているように、窯が抜けるほど焼抜くことによって生まれる自然の美しさは、他陶に味わえない独特の「わび」「さび」を高く評価され珍重されています。

忍者

忍者の里とよばれる伊賀の国

忍術の歴史は仏教とともに6世紀に伝来した兵書「孫子」に始まると言われます。戦国時代、徳川家康が本能寺の変の際に、危機を察して伊賀越えをして三河に戻りました。その時の功労者が伊賀忍者の服部半蔵です。その後、半蔵は徳川家に仕え隠密頭の地位につき忍びの術を駆使、大阪城の諜報活動をして大阪の陣を勝利に導きました。

かた焼き

忍者の携帯食

伊賀伝統の銘菓「かた焼き」は、昔々、伊賀の忍者が敵地で過ごす幾日もの隠密行動を支える食として、かさが小さく滋養にとむ携帯兵糧としてもちいられたものです。
忍者の携帯食「かた焼き」は、江戸時代になると砂糖などを加えたお菓子に姿を変え、広く庶民に愛されるようになりました。